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Women at Work !  1


「そんなことも知らないのか?」
工事現場の騒音の間からでも、はっきりと聞こえるがなり声。
何か言い返す男の声は凄まじい物音にかき消されているのに、その声は不思議とよく通り、耳に届いた。

ここは、朝倉建設が推進するプロジェクトの建設現場。
副都心の一角に、地上38階建てのタワー型オフィスビルと、複合型商業施設を併設したマンションを建設する大規模な再開発計画だ。
ようやく用地買収が完了し、建設に着工したのは昨年の秋。
それから数ヶ月、今では土台の基礎工事が終わり、地上部分の骨組み工事が始まっていた。


朝倉建設社長である朝倉大地は、その進捗状況を確認するために、自ら現場に出向いた。もちろん抜き打ちだ。
現場の安全管理、周囲の住人や通行人への配慮、現場と周辺の清掃管理のされ具合等々、施工主として注意義務が課せられる事項は数多ある。それらを確認するためにも、あらかじめ視察の予告をしておくと、的確な現場評価ができないことがある。その時表面だけきれいに片付いた現場を見たところで、目が届かない場所が出ればそこから不慮の事故や労働災害が起こる危険性があるからだ。

「その格好で現場を歩くつもり?百歩譲ってメットはここにあるのを使えばいい。けど、工具や鉄骨、金具や建材が地面にごろごろしている場所を革靴で歩くのは無理だ」
どうやら管理事務所のプレハブ小屋の入口あたりで言い争っているのは、今日の視察に同行した秘書と現場の監督らしい。相変わらず秘書は何かを言い返しているようだが、何を話しているのかはまったく聞こえてはこなかった。
大地は腕時計を確認しながら溜息をついた。
次の予定まであと30分もない。ただでさえ前の会合が長引いたせいで、時間が圧しているのだ。

当初、ここには大地が一人で来ることにしていた。現場に入れば監督に案内を頼めばよく、誰かを帯同させる必要はない。秘書室はそんな彼の単独行動をよくは思っておらず、だれかを同行させようと打診してきたが、不要だと突っぱねた。
ところが今朝になって、時間の都合で一緒に会合に出席した秘書を本社に送り届ける余裕がないことが分かった。仕方なく同行を許したというのに、時間を仕切る役割の彼がトラブルを起こしているとなると、これでは本末転倒だ。

大地は座っていた椅子から立ち上がると、入口の方へと近づいて秘書を一喝する。
「こんな所で一体なにをもめているんだ。小嶋、もう時間がないぞ」
そして次に言い争いの相手を振り返ると、そこにいたのは作業服姿の男だった。身長は170センチちょっと、男としては中肉中背といったところか。埃だらけの作業服に安全靴という、現場ではどこでも見かけるようないでたちだった。
だが、特徴的なのは、深めに被ったヘルメットから出ている長い髪の毛だ。それもご他聞に漏れず埃を被って白くなっていたが、その長さが普通ではなかった。きっちりと三つ編みにしていても腰近くまで垂れ下がっていたのだ。
埃だらけの現場の仕事で、この長さでは髪の手入れも大変だろうな、と驚きを感じながら大地はその男に話しかけた。

「君がここの管理者か?悪いが時間がないんだ。これからすぐに現場を案内してくれないか」
「ですから、社長…こいつはそれを拒否しているんですよ」
秘書の小嶋が訴えるように大地を見た。
「たかがヘルメットや靴一つで…」
「素人はすっこんでな!」
作業服の男はハスキーな声にドスを利かせてその言葉を遮った。
「現場に入る時には、たとえ社長だろうが会長だろうが、ヘルメット着用は鉄則だ。それに敷いてある鉄板は滑りやすいし、機材もあちこちに転がっているんだ。革靴なんかで歩いた暁には滑って怪我をすることになりかねない。
それに、特に今日は朝から納入トラブルがあって、こっちもてんてこ舞いしているっていうのに、突然呼びつけて現場を案内しろだと?そんな悠長な暇がどこにあると思ってるんだ?」

「作業員風情が、施工主である朝倉社長に対してその言い方は失礼だろう」
憤慨する秘書を見ながら、大地は再び溜息をついた。
そんなことがあれば確かにこの男がおかんむりなのも仕方がない。おそらくは、最初に小嶋が上から目線で高飛車に彼に案内を申し付けたことが事態を拗らせたであろうことは、想像に難くない。

「小嶋、もういい。君は下がっていてくれ」
「しかし、社長…」
「いいから下がれ」
大地は秘書にそう促すと、自らが男の前に進み出た。
「突然で申し訳なかった。私は朝倉建設の社長、朝倉大地だ。今日は抜き打ちで現場の視察をするためにここに立ち寄ったのだが、取り込み中とは知らなかったんだ」
名刺を差し出すと、相手は手袋を外した。現れたのは考えていたような無骨な手ではなく、ほっそりとしたきれいな長い指だった。それが差し出した名刺をスマートな所作で受け取る。

「抜き打ちは構わない。普段の散らかり具合を見たいという目的もあるだろうから。でも最低限、装備だけはきちんとしてきて下さい。何かあったらこちらも責任が持てない」
そう言いながら、相手も気付いたように「失礼」と言いながらヘルメットを脱いだ。
汗で額に張り付いた前髪、巻いたタオルの間から見える首筋は灰色の埃にまみれている。しかし、大地が一番驚いたのは、そこからのぞいた顔だった。

「女だったのか…?」
思わずその言葉が口をつく。
化粧っ気はなく、束ねた髪の毛はヘルメットでボサボサだが、見たところまだ30にはなっていないだろう。
「男だと思ってました?」
大地にじっと見つめられた彼、もとい彼女が苦笑いを浮かべた。
「い、いや、失礼した。まさか監督を女性がしているとは思わなかったので」
「確かに。まぁ、こんな成りだし。声も塵埃でやられてしまって、どんどんがらがらになってしまったからね。仕方がないさ。いつもなら、じいさん…いえ、親方が現場を仕切っているんだけど。先日来、調子を崩しちまっていてね」

この現場は巽組が入ると聞いていた。高所作業が得意な、今では数少なくなった「とび」を専門とする職人たちだ。
中でも親方の巽源之助は、この世界では右に出るものはいないと言われる職人だった。自ら率いる職人を束ね、六本木、台場あたりの多くの高層ビルの建設に携わり、仕事を完璧に仕上げた職人界の重鎮だった。
数年前からは高齢もあって、専ら現場で指揮を取ることに専念しているようだが、今でも彼の下で働く職人集団の評価は超一流だった。

「とりあえず、今から現場に入るのは難しい。進捗状況だけ説明させてもらうから、中に入って」
大地が先ほどまで掛けていた椅子に再び腰を下ろすと、彼女はポータブル式の保温庫から缶に入ったお茶を取り出した。
「悪いね社長、こんなものしかなくて。ここは埃がすごいから、湯のみやコップを置いておけないから」

彼女はプルトップを軽く摘んで開けると、一気にそれを飲んで一息ついた。
「あ、申し遅れましたが、私は巽陽南子。現在この現場の監督代行をしています。よろしく」
「巽?ということは、親方の身内か何かか?」
「ええ。本来の監督、源之助は私の祖父です」


簡易テーブルの上に広げられた図面を指し示しながらする状況説明は、驚くほど的確だった。こちらからの細かな質問に動じることなく、無駄のない回答が返ってくる。
監督代行、巽陽南子は、女性ながらかなり有能な人物と見て取れた。

「なるほど。では、この部分だけが遅れているということだな」
彼女の説明では、注文した部材の品番違いで手間取り、まだ取り掛かれていない箇所が幾つかあるとのことだった。その部材が今日再納品の手筈だったのだが、土壇場で再び品番違いが発覚して、午前の工事が止まってしまったというのだ。

「こんなことは珍しい。納入業者は元請が懇意にしている馴染みらしいし、実績もあると聞いているのに、同じミスを二度もやらかすなんて、信じられない」
彼女は首に巻いていたタオルを外すと額の汗を拭った。
真冬に近い気温だというのに、彼女は吹き出すように汗をかいている。このプレハブの中はストーブが焚かれていて外に比べるとかなり暖かい。極寒の現場に身体が馴染んでいる彼女にはそれが暑く感じるようだった。

「とにかく、これ以上の遅れを出さないように、手順を変えてでも工期を守るつもりです。そちらも、もし、また視察できる時間があるならば、できれば数時間前でいいから連絡を入れていただきたい。可能な限りご希望にお応えするので」

彼女はそう言うとにこりと笑う。
女性らしいしとやかさとは縁のない、飾らない笑顔。しかしそれには真夏に咲く、大輪の向日葵のような快活さがある。

何と大らかに笑うことができる女なんだろう。

それが、大地が巽陽南子という女性を意識した、最初の瞬間だった。




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